夢を見るチカラ
この世のなかは、1人のために都合よく動いているわけではなく、ありとあらゆる全てのバランスのなかで形成されているわけです。
少しでも調子に乗ってしまったり、冒険をしようとすると、世の中のバランスを保とうとするチカラにねじ伏せられてしまう。
そういうことを身に染みて実感し続けると、人は「安定」「安全」「想定の範囲内」のなかで生活しようとします。
しかたのないことです。
そんななかで、夢を見ようとすることは難しく、夢を見ようとすると、自分の環境の周りの「安定」思考の人たちが、夢からから覚まそうと、ひっきりなしに現実の恐ろしさを語り始めるのです。
わたしは、人へ夢を見るチャンスを与えることは、自分自身の生きる意味を、より色濃くすることへ繋がると思っています。
とても長い目で時代を見ると、人が1000年前から夢を見続けた足跡は確かに残っていて、現状で満足する人達だけでは、何も生まれないということが理解できることは、この世のなかの事実の1つです。
ただ夢を見るということは、節だらな欲を満たして現実から逃避するということではないわけです。夢を見続けることは、誰にもできることではありません。
夢を見続けるには、夢を見ていない人よりも何倍も努力と苦労が伴います。そう、エネルギーがいるわけです。
何故、人が人の夢を応援しようとするのか?応援してもらうためには?どうすればいい?
「すごいな」、「頑張ってるな」、「そんなこと真似できない」
そう思ってもらえるぐらい、夢を見続けることを頑張れば、人は応援したくなるものです。
オスカー ワイルドの「我々は混沌としたドブの中にいる。でも、そこから星をようとする人がいる。」という言葉がわたしは大好きです。星を見ようとする人がいてくれるから、星を見ようとしない人は生きる活力を、星を見ている人から貰えるというこですね。
これから何かにチャレンジしようとする人へ思うこと。
チャレンジすることを応援してもらうことに足りるだけの、チャレンジしようとすることを理解してもらうだけの、説得力のある努力、立ち振舞い、そして実力を身につける。
ただ、口先だけで夢を語っていては、薄っぺらい人間と見られるだけです。
現実に生きるもの、夢を見るもの。
どちらも悪くありませんし、どちらも必要なのです。
全て満たされていて、何でも手に入る。なにも不安がない大富豪。
なにも知らなくて、これから冒険の地図を自分で描こうと、無我夢中で鼻水をたらしながら、目が輝いて夢を見ようとする者。
1000年の歴史のなかで本当に価値のあるのはどちらなのでしょうか?
踏ん張って、頑張ることをあきらめないでというのが、私達の願いなのです。
夢破れて夢から覚めたとしたら、夢を達成するだけのことをしなかっただけ。
頑張ったけど駄目だった、、は本当はそうではなく、本当にすべきこと、すべき量が足りなかっただけなのです。結果になりうるだけの膨大な努力。有り余る程の過程。
生半可な努力なだけで夢から覚めた者が、これから夢を見ようとする者を邪魔をすることは絶対に駄目なことです。
全てを前向きにとらえること。どんなことでも楽しみを見つけられるセンス。
夢を見るチカラ。
ーー夢から覚めようとする冒険家達に捧ぐーー
2020年06月29日 04:48