教育論:人を育てる、導くということ!?part2
とても難しいことです。
なぜ?導くのか?いや、導きたいのか?
それは、その導く対象にとって利益になるからです。上手に導かれたら、生活が、人生が豊かになる。そのように導く、、、
ですが、1つ間違えると「厳しさ」が「暴力」になったり、「パワーハラスメント」となってしまうのが、導くときの厳しさの度具合なのです。
よかれと思ってアドバイスしようとしたり、叱ったりしたとしても、相手が成長しなくては、それは、老婆心ということになってしまいます。
特に、親が子供を感情の赴くままに怒ったり、経営者や、上司が、ミスを揚げ足をとるように叱責したり、スポーツのコーチが必要以上に厳しすぎる指導をしてしまう。それは、本当に相手にとってプラスになることなのでしょうか?
結果的にその、怒られたり、叱られたり、指導された人が、成長して立派になったならそれは、それでいいことなのかもしれません。
ですが、私自身、ヨットのプロフェッショナルだった父に、鉄拳制裁を浴びせられ続けられた日々を思いだすと、とても悲しく、とても複雑な心境になってしまいます。
結果的、鉄のメンタルを作り上げられたことにはなるのですが、一歩間違えるととんでもない負のスパイラルに陥っていたのかもしれません。私がそうされたから、私も人にそうしたい、とは私は少しも思いません。なぜなら、私はとても辛かったからです。
父は既に病気で亡くなってしまったのですが、亡くなる直前に、「感情にまかせて怒って、本当にすまなかった。後悔している。」と私に言ったときに、その夜、私は夜通し泣いたことを覚えています。何年もの鬱積が、信じられないほどの涙になったのです。今でも、無き父をとても尊敬しますし、お金のかかるゴルフをさせてくれて感謝もしています。ですが、厳しすぎた教育に対しての疑問は無いといったら嘘になります。
私はいつも怒られる度にこう思っていました。
怒られるのは仕方のないことなのかもしれない。でも、どうすればよかったのか?そして、具体的にどうしていけばいいのか?導いて欲しい!
ただ、叱るだけではだめです。叱ったあとに、具体的にどうするのか?を指導しなくてはだめなのです。具体的なことを言えないのに、叱ることは絶対にしてはいけません。もちろん、本当に人としてやってはいけないことをしたときは、私は強く叱るべきだとは思います。ですが、自分の感情に任せて怒ったらそれは、意味がありません。
「勉強しなさい!練習しなさい!業績をあげなさい!」
具体的な指示が出せないのに、言うことはマイナスになってしまいます。
どのように、どのペースで、どれぐらい勉強させるのか?練習させるのか?仕事をさせるのか?
もっというと、人を指導する前に、まずは自分のやる姿を見せる。もしくは、自分で結果を出せた具体的な経験を理解してもらうことがとても大切です。
自分ができなかったこと、やってみせれないことを人に強く言っても、相手には伝わりません。
相手には厳しくして、自分は楽をしていたり、遊んでいては説得力は薄くなってしまいます。
子供や、生徒や、部下に成長してほしければ、自分の頑張る姿を見てもらえばそれで済むのです。
山本五十六さんの言葉、
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ。」
これこそ、人を育てるメソッドです。
自分ができないこと、してないこと、を厳しくする前に、まずは自分です。自分を磨こうとする姿を、人が見れば、自ずと成長していることでしょう。
もし、導きかたが分からない!?という人がいたら、無理に導く必要などなく、よく会話をするようにするのがおすすめです。言うことを聞かなくて困っているという人ほど、すぐに叱ることで解決しようとする傾向があります。時間をかけて会話をすることは、手間がかかりますが、手間をかけることを惜しんでは、人に伝えたいことは伝わりません。
自分が成し得た経験則、自分がやってみせれることからの指導は問題は無し。
自分ができなかったこと、やってみたこともないことを、自分の価値観で押し付けたり、むやみに意味もなく厳しくすることは問題あり。
人を導くということは、心の底から相手を思いやる気持ちから導かなければ、相手を到着駅に導くことはできないのです。自分の都合で、自分のエゴイズムで、自分のために、相手を導く、叱るということは、どう思いますか?意味のあることだと思いますか?
ただ、ノープランなのに厳しくしていれば人は育つ。そんな馬鹿げたことをするぐらいなら、黙っていたほうがマシなのでは?と私は思います。
2020年06月21日 10:07